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2010年09月11日
お坊さん☆

僧名は敬哉と書いて(キョウサイ)と呼びます。
お寺はニトリの後ろ、安福寺です。
お二人とも海外で素晴らしい経験をされていて本当に輝かしいです。私にはそのような経験がありません。ささいな自慢といえばアメリカはニューヨークに日本人のお坊さんの友人がいます。2年前一人ではるばる会いに行きました。「彼」については後ほど紹介します。
今回のはお坊さんと修行についての話です。興味のない方にはマニアックでつまらないと思いますが、長々と書きます。すみません。
お坊さんになるにはまずはじめに「得度(とくど)」という儀式を受けます。これは、阿闍梨(あじゃり)という尊いお坊さんから、「僧侶になりなさい、あなたが僧侶になることを許可します」というお言葉をいただき、僧侶になる資格を授けられます。そして、私は僧侶になることを約束します。私は中学生の時に受けました。剃髪でしたので次の日学校へ行くのが嫌だった記憶があります。
お寺の子でなくても、この「得度」を受ければだれでも僧侶を目指すことができます。お坊さんになりたい!という熱意のある方は是非私まで問い合わせ下さい。
一人前のお坊さんになるためには修行が欠かせません。大学に入り本格的に始まります。本山(ほんざん)と呼ばれるその宗派の最も中心的な道場で修行をします。私の寺は真言宗豊山(ぶざん)派で本山は奈良県桜井市にある総本山長谷寺(はせでら)になります。先日、市川海老蔵が仏前結婚式を行った成田山新勝寺は真言宗智山「ちざん」派です。豊山派とは兄弟のような関係でその「教え」もほぼ同じです。
宗派によって本山は異なります。
大学二年のときに、本山において約一ヶ月半の厳しい修行がありました。
朝は三時半に起き、頭を床につける礼拝行を1日三百回、「護摩(ごま)」という火を使う行を1日三回行うなど毎日滝のように汗をかく日が続きました。正座も一日5時間以上。一日中裸足のせいで足の甲から出血し、そこからばい菌が入り、激痛がはしりました。携帯、テレビ、新聞、肉、魚など、俗世間のあらゆるもの眺めることも許されず、飲み物は麦茶のみ。時折、差し入れで出るポカリやリポDは何よりも貴重で、なくなっても水を入れて少しでも味を感じてました。頬はこけ、体重は8キロ落ちました。一緒に修行をする仲間(=行者ぎょうじゃ)は私を含め14人おり、なかには女性もいました。一ヶ月半集団生活を送り、ともに勉強し、ともに苦しみ、分かち合い、仲間の存在はとても大きかったです。
その中に50歳代の方がいました。私たちと全く同じ行をやり遂げました。その方は在家(一般の家庭)の生まれで、50歳を過ぎてから仏教に出会い、得度を果たしました。
彼の仕事は国連職員。ニューヨーク在住。そう、冒頭に出てきた、その「彼」です。彼なんて軽々しく紹介しては失礼なのですが..。
年齢が一回り以上も若い本山のお坊さんに叱咤されながら懸命に行に励む彼の姿を見て、私は感銘を受けました。不満一つ言わず、ひたむきに行に没頭していました。彼のその姿から大切なことを学んだ気がします。お坊さんになるということはどういうことなのか、僧侶としての心構えなど、私は心身ともに修行が足りないことを実感しました。また、人の前に立つ者として、生半可な気持ちではいけない、しっかりと修行を積んで一人前の僧侶になる覚悟を決めました。
ニューヨークでは彼の家に泊まらせていただき、国連の関係者専用のところに案内していただいたり、貴重な体験をしました。
どこでどんな出会いがあるかわからないですね。
まさか修行つながりでニューヨークに行けちゃうなんて。
そんなこんなで厳しい修行は無事に満行し(行をすべてやり遂げること)、私のハタチの夏は終わりました。
帰ってきてボールを蹴れるまでかなり時間がかかりました。椎間板ヘルニアにもかかり、修行の代償は予想以上に大きいものでした。
しかし、この修行を通してさまざまなことを学びました。ごく普通の生活のありがたみを知りました。逆に、修行に慣れ、没頭することで世間の喧騒から離れ、修行中のほうが娑婆の世界での生活よりも楽なのではないかとさえ思いました。
人間は慣れます。慣れってこわいですね。
とにもかくにも、お坊さんになるには「からだ」の修行とともに「こころ」の修行が必要だと自覚しました。
今後も、厳しい修行が待っていますが、真摯に向き合い、精進していきたいと思います。まだまだ未熟なのですが、みなさま温かく見守って下さい。
そして時には“喝“を入れてください。
余談ですが、長谷寺は観光スポットとしては最高のところです。是非みなさま足を運んでみて下さい!
なんだか堅苦しい文章になってしまいましたが、最後は本題に戻します。
明日から始まる後期のリーグ戦を全て勝ち、1部昇格できるよう全力を尽くしたいと思います。
みんなできつい練習を乗り越えてきたので、自信を持って試合に臨みます!!
また、スポンサーやファンの皆様、その他の関係者あってのスポルティーバなので一選手として責任を持って戦います!!
次はどなたかよろしくお願いしますm(._.)m
長文、駄文失礼いたしました。
Posted by スポルティーバつくば at
21:03│Comments(6)
2010年09月07日
海外
こんばんは、前回同様知らない内にブログを回されていた野本です。
栗原選手が書いた『世界で活躍する』自分になれるかどうかはわかりませんが、随分昔から世界でサッカーをしたいと思っていました。
キッカケは98年に中田英寿選手がイタリアへ移籍した以降、テレビで日本国外のサッカーが見れる機会が増えました。偶々家では衛星中継が見られたので、ブンデスリーガ/プレミアリーグ/セリエA/リーガ・エスパニョーラなどの試合を毎日のように見ていたのを覚えています。
本格的に海外でのプレーを考えたのは専門学校を卒業する前だと思っている人が多いかもしれませんが、実は18歳の時に一度チャンスがあったんです。
『プロジェクト・ザール』という01/02シーズンからスタートしたドイツサッカー留学プロジェクトがあり、有名な選手は2期生の湘南ベルマーレ所属の鈴木伸貴選手がいます。
自分は3期生セレクションを18歳の時に応募し、一時選考を無事通過。
最終選考は静岡・御殿場でプロジェクトの最高責任者のドイツ人が見てくれる事になりました。
今までほとんどセレクションというものを受けたことがなかった自分は『とにかくコンディションを最高にしよう』と考え、最終選考までの間に無茶なトレーニングをし続けました。
ほとんど休むことなく走りこみやトレーニングを続けた結果、身体にはキレがありましたが同時に違和感もあったんですが、合格したい一心で見ないふりをしていました。
そしてついにセレクション……自分自身驚くぐらい動けて、これはいけるんじゃないかと思った瞬間……『ビリッ』という音が自分の太もも裏からはっきりと聞こえました。
その場で当然の如くアウト、大げさですが今まで生きてきた中で一番の痛みでした。
3期生セレクションも当然選考外になり、自分のドイツ挑戦は呆気ない形で終わりました。
目標を失った自分は19~20歳を思い出したくもないような自堕落な生活を送り、色々あって立ち直った21~22歳をスポーツの専門学校に通って、95%就職していく同級生と同じく就職……するつもりが、このままサッカーを辞めたら後悔すると思い就職活動すらしませんでした。
サッカーを続けると決心した時『日本ではなく海外で』と決めていましたが、目指した場所が18歳の時に一度は諦めたドイツになるとは想像もしてませんでした。
ただ色々自分で探した結果、条件が一番合ったのがドイツであり、18歳から数えて4年越しにドイツへ留学することになったのが07年の7月。
あれから3年以上が過ぎ、南米のパラグアイを経由して今はスポルティーバつくばでお世話になっています。
怪我をするなど未だにチームの勝利に貢献できてはいませんが、一日でも早く練習に復帰してチームの目標である1部リーグ昇格の為頑張ります。
では、栗原選手のご指名の最後は舘野選手にお願いします!
栗原選手が書いた『世界で活躍する』自分になれるかどうかはわかりませんが、随分昔から世界でサッカーをしたいと思っていました。
キッカケは98年に中田英寿選手がイタリアへ移籍した以降、テレビで日本国外のサッカーが見れる機会が増えました。偶々家では衛星中継が見られたので、ブンデスリーガ/プレミアリーグ/セリエA/リーガ・エスパニョーラなどの試合を毎日のように見ていたのを覚えています。
本格的に海外でのプレーを考えたのは専門学校を卒業する前だと思っている人が多いかもしれませんが、実は18歳の時に一度チャンスがあったんです。
『プロジェクト・ザール』という01/02シーズンからスタートしたドイツサッカー留学プロジェクトがあり、有名な選手は2期生の湘南ベルマーレ所属の鈴木伸貴選手がいます。
自分は3期生セレクションを18歳の時に応募し、一時選考を無事通過。
最終選考は静岡・御殿場でプロジェクトの最高責任者のドイツ人が見てくれる事になりました。
今までほとんどセレクションというものを受けたことがなかった自分は『とにかくコンディションを最高にしよう』と考え、最終選考までの間に無茶なトレーニングをし続けました。
ほとんど休むことなく走りこみやトレーニングを続けた結果、身体にはキレがありましたが同時に違和感もあったんですが、合格したい一心で見ないふりをしていました。
そしてついにセレクション……自分自身驚くぐらい動けて、これはいけるんじゃないかと思った瞬間……『ビリッ』という音が自分の太もも裏からはっきりと聞こえました。
その場で当然の如くアウト、大げさですが今まで生きてきた中で一番の痛みでした。
3期生セレクションも当然選考外になり、自分のドイツ挑戦は呆気ない形で終わりました。
目標を失った自分は19~20歳を思い出したくもないような自堕落な生活を送り、色々あって立ち直った21~22歳をスポーツの専門学校に通って、95%就職していく同級生と同じく就職……するつもりが、このままサッカーを辞めたら後悔すると思い就職活動すらしませんでした。
サッカーを続けると決心した時『日本ではなく海外で』と決めていましたが、目指した場所が18歳の時に一度は諦めたドイツになるとは想像もしてませんでした。
ただ色々自分で探した結果、条件が一番合ったのがドイツであり、18歳から数えて4年越しにドイツへ留学することになったのが07年の7月。
あれから3年以上が過ぎ、南米のパラグアイを経由して今はスポルティーバつくばでお世話になっています。
怪我をするなど未だにチームの勝利に貢献できてはいませんが、一日でも早く練習に復帰してチームの目標である1部リーグ昇格の為頑張ります。
では、栗原選手のご指名の最後は舘野選手にお願いします!
Posted by スポルティーバつくば at
01:18│Comments(1)