2010年05月17日
Paraguay 2
こんばんは、野本です。
榊原選手から予想してなかったノールックパスを出されました。
最近書き込んだから「しばらく俺の番は無いな」と安心していたので、本当に予想外でした・・・。
前回書いた通り、昔話の続きをしたいと思います。
内容がわからない人は4月17日に書き込んだ『paraguay』を参照してください。
前期リーグ後の初練習、グラウンドに着くとそこで普段とは違う雰囲気を感じました。
まったく知らない選手が15人以上いて、知ってる選手はみんなサブ組のみ。
首を傾げながら監督から集合をかけられ、その場ですべてを説明してくれました。
見知らぬ選手達はみんなチームへの入団を希望する練習生で、後期リーグまでの中断期間で移籍マーケットが開くので良い選手は採るとのこと。
これから数週間、レギュラーは大体オフ・サブ組は練習生と連日紅白戦をすることになりました。
なぜサブの選手のみ?と疑問に思いましたが、理由はすぐに仲の良い選手が教えてくれました。
前期出場機会が無かった選手は、後期リーグが始まるまで『試される』みたいです。
これからの数週間、この練習生達より良いプレーをすれば後期リーグもチームの一員としてプレーするチャンスが与えられるが、ここで練習生より悪いプレーをしたら当然評価は底辺に落ちます。
つまり、ここで結果を出せなければ当然後期リーグでも出場機会は全く無い→移籍するしかなくなる→簡単に言えば戦力外通告を受ける・・・という意味が込められていました。
最初は『入団前に1シーズンプレーするって言う契約書を書いたじゃん』と思いましたが、南米のこのレベルなら試合に出れなければシーズン中でも契約を見直されることなんてよくあるそうです。
いきなり今から他のチームへ移籍するなんて難しいし、チームも3部昇格へ良い順位にいたので、なんとしてもチームに残らなければなりませんでした。
それから連日紅白戦の毎日。グラウンドに集まって軽くストレッチをし終えたらすぐにビブスを渡され、90分1本の試合を途中休憩を挟みながらずっと走り続けました。
当時プレーしていたFWのポジションは人数が多いので毎試合3トップ、他の2人は練習生で全くといっていいほど俺にパスを出そうとしませんでした。というよりMFの選手も前が開いたらシュートを打つなど、とにかくみんなゴールという目に見える結果を求めていました。
そんな中、俺は数少ない味方であるサブ組の選手と連携をとりながらゴールを狙い続けました。
当然結果を残さないと契約ができず、今は4部だけど元1部なので給料が良いRECOLETAに入りたい練習生からは怒鳴られ、味方なのにルーズボールを取りに行った時削られたり顔に肘を当てられた時もありました。
体中に擦り傷や打撲を負い、僅かな休憩以外はずっと走り続けるという過酷な数週間を過ごす中、俺は大体3試合に2得点という他のFWより良い結果を残すことができました。
数週間後、最終的に15人中3人が仮契約を結ぶことになり、サブ組の選手は数人チームを去りましたが、俺はチームに残ることができました。
たくさんいた練習生が大勢去り、共に戦ってた仲間が数人出ていき、何とか残ることができた俺に監督とコーチが『いつもそれだけの危機感を持ってプレーしろ、お前に足りないのはそこだ』と全員での練習再開の日に直接言われました。
リブレの時の契約を勝ち取る為にプレーしていた自分と、チームに合流してからのプレーを思い返してみれば実際試合に出たくて必死にプレーしていましたがどこかで『いつか試合に出れれば』なんてことを考えていたかもしれません。
4部とはいえ一応プロリーグであり、『いつか』なんて考えてる選手にチャンスなんて来るわけがない。
『今』を戦わないと、その場の一瞬の全力をかけないと、試合には使ってもらえない。
実際周りの選手は、勝利給で何とか日々の毎日を生きている選手達。
サッカーにかける思いが、周りの選手と比べて全然足りなかったんだと痛感させられました。
それからの日々は、絶対とは言えませんがとにかく毎日必死にサッカーに取り組みました。
チャンスが舞い込んで来た時に怪我をするなどの不運もありましたが、先発出場するところまで上り詰めることもできました。
結果を残せたとは言えない1シーズンでしたが、今まででは体験できなかった『サッカーで生きる』ということを感じることができました。
4部リーグ終了後、3部のチームでコーチをしている人のリブレに参加し非公式ですがオファーを受けましたが怪我などもあり最終的に日本への帰国という道を選びました。
約3年海外を渡り歩き、パラグアイやヨーロッパの国へまた行けるチャンスはありましたが金銭面や自身の怪我など色々な事情が重なった中、3年振りに日本でプレーを決心したのは2009年の終わり。
選べる立場ではなく、複数の社会人チームのセレクションを受けた中、偶然にもスポルティーバつくばが自分を受け入れてくれました。
入団を決めた理由は、関東で唯一行けるチームであり・将来Jリーグを目指していて・選手兼監督の藤木さんを俺が一方的に数年前から知っていたから、でした。
スポルティーバつくばに入団してもう5ヶ月が経ち、怪我や実力不足で中々試合には出れませんがとにかくこれからも努力して試合に出れるようがんばります。
かなり長くなりましたが、ようやく過去の話は終わります。ずっと自分の昔話ばかりだったので、次(しばらく回ってこないことを切に願う)はもっとスポルティーバに関係のある話をしてみたいです。
では次回の書き込みは、1歳年上で偶々同じ誕生日の竹内大樹選手にお願いします!
榊原選手から予想してなかったノールックパスを出されました。
最近書き込んだから「しばらく俺の番は無いな」と安心していたので、本当に予想外でした・・・。
前回書いた通り、昔話の続きをしたいと思います。
内容がわからない人は4月17日に書き込んだ『paraguay』を参照してください。
前期リーグ後の初練習、グラウンドに着くとそこで普段とは違う雰囲気を感じました。
まったく知らない選手が15人以上いて、知ってる選手はみんなサブ組のみ。
首を傾げながら監督から集合をかけられ、その場ですべてを説明してくれました。
見知らぬ選手達はみんなチームへの入団を希望する練習生で、後期リーグまでの中断期間で移籍マーケットが開くので良い選手は採るとのこと。
これから数週間、レギュラーは大体オフ・サブ組は練習生と連日紅白戦をすることになりました。
なぜサブの選手のみ?と疑問に思いましたが、理由はすぐに仲の良い選手が教えてくれました。
前期出場機会が無かった選手は、後期リーグが始まるまで『試される』みたいです。
これからの数週間、この練習生達より良いプレーをすれば後期リーグもチームの一員としてプレーするチャンスが与えられるが、ここで練習生より悪いプレーをしたら当然評価は底辺に落ちます。
つまり、ここで結果を出せなければ当然後期リーグでも出場機会は全く無い→移籍するしかなくなる→簡単に言えば戦力外通告を受ける・・・という意味が込められていました。
最初は『入団前に1シーズンプレーするって言う契約書を書いたじゃん』と思いましたが、南米のこのレベルなら試合に出れなければシーズン中でも契約を見直されることなんてよくあるそうです。
いきなり今から他のチームへ移籍するなんて難しいし、チームも3部昇格へ良い順位にいたので、なんとしてもチームに残らなければなりませんでした。
それから連日紅白戦の毎日。グラウンドに集まって軽くストレッチをし終えたらすぐにビブスを渡され、90分1本の試合を途中休憩を挟みながらずっと走り続けました。
当時プレーしていたFWのポジションは人数が多いので毎試合3トップ、他の2人は練習生で全くといっていいほど俺にパスを出そうとしませんでした。というよりMFの選手も前が開いたらシュートを打つなど、とにかくみんなゴールという目に見える結果を求めていました。
そんな中、俺は数少ない味方であるサブ組の選手と連携をとりながらゴールを狙い続けました。
当然結果を残さないと契約ができず、今は4部だけど元1部なので給料が良いRECOLETAに入りたい練習生からは怒鳴られ、味方なのにルーズボールを取りに行った時削られたり顔に肘を当てられた時もありました。
体中に擦り傷や打撲を負い、僅かな休憩以外はずっと走り続けるという過酷な数週間を過ごす中、俺は大体3試合に2得点という他のFWより良い結果を残すことができました。
数週間後、最終的に15人中3人が仮契約を結ぶことになり、サブ組の選手は数人チームを去りましたが、俺はチームに残ることができました。
たくさんいた練習生が大勢去り、共に戦ってた仲間が数人出ていき、何とか残ることができた俺に監督とコーチが『いつもそれだけの危機感を持ってプレーしろ、お前に足りないのはそこだ』と全員での練習再開の日に直接言われました。
リブレの時の契約を勝ち取る為にプレーしていた自分と、チームに合流してからのプレーを思い返してみれば実際試合に出たくて必死にプレーしていましたがどこかで『いつか試合に出れれば』なんてことを考えていたかもしれません。
4部とはいえ一応プロリーグであり、『いつか』なんて考えてる選手にチャンスなんて来るわけがない。
『今』を戦わないと、その場の一瞬の全力をかけないと、試合には使ってもらえない。
実際周りの選手は、勝利給で何とか日々の毎日を生きている選手達。
サッカーにかける思いが、周りの選手と比べて全然足りなかったんだと痛感させられました。
それからの日々は、絶対とは言えませんがとにかく毎日必死にサッカーに取り組みました。
チャンスが舞い込んで来た時に怪我をするなどの不運もありましたが、先発出場するところまで上り詰めることもできました。
結果を残せたとは言えない1シーズンでしたが、今まででは体験できなかった『サッカーで生きる』ということを感じることができました。
4部リーグ終了後、3部のチームでコーチをしている人のリブレに参加し非公式ですがオファーを受けましたが怪我などもあり最終的に日本への帰国という道を選びました。
約3年海外を渡り歩き、パラグアイやヨーロッパの国へまた行けるチャンスはありましたが金銭面や自身の怪我など色々な事情が重なった中、3年振りに日本でプレーを決心したのは2009年の終わり。
選べる立場ではなく、複数の社会人チームのセレクションを受けた中、偶然にもスポルティーバつくばが自分を受け入れてくれました。
入団を決めた理由は、関東で唯一行けるチームであり・将来Jリーグを目指していて・選手兼監督の藤木さんを俺が一方的に数年前から知っていたから、でした。
スポルティーバつくばに入団してもう5ヶ月が経ち、怪我や実力不足で中々試合には出れませんがとにかくこれからも努力して試合に出れるようがんばります。
かなり長くなりましたが、ようやく過去の話は終わります。ずっと自分の昔話ばかりだったので、次(しばらく回ってこないことを切に願う)はもっとスポルティーバに関係のある話をしてみたいです。
では次回の書き込みは、1歳年上で偶々同じ誕生日の竹内大樹選手にお願いします!
Posted by スポルティーバつくば at 22:53│Comments(2)
この記事へのコメント
書き込み、ご苦労さん♪
長すぎ…(^_^;
長すぎ…(^_^;
Posted by ファンタジスタ at 2010年05月18日 10:02
そんだけ厳しい状況を経験してるんだから、
甘い考えを持っているチームメイト達に
もっともっと伝えていかなきゃいけないんじゃないかな???
例え試合に出れなくても、いろんな方法でかかわれると思うよ。
前の文章とこの文章、ここに来た経緯を読んでいると、
このチームの成功がない限りノモの成功もないんじゃない?
そのように思うよ。
今を生きてください
そして怪我人のポジションをとってください
あと怪我をしない体を作ってください
甘い考えを持っているチームメイト達に
もっともっと伝えていかなきゃいけないんじゃないかな???
例え試合に出れなくても、いろんな方法でかかわれると思うよ。
前の文章とこの文章、ここに来た経緯を読んでいると、
このチームの成功がない限りノモの成功もないんじゃない?
そのように思うよ。
今を生きてください
そして怪我人のポジションをとってください
あと怪我をしない体を作ってください
Posted by ToraToraTora at 2010年05月18日 21:11
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